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2010年8月1日 - 2010年8月7日

しわくちゃのおばあさんになって、言ってやるのよ(”文学少女”見習いの初戀/相生)

 ども、単身赴任も長くなりましたおぢさん、たいちろ~です。
 最近、高年齢者の所在不明が多数発見されてるというニュースが流れています。一人身でおりますと、ころっと逝っちゃった時に誰がが発見してくれるかというのは実は切実な問題(*1)。最期は奥様か子供か孫か愛人かはわかりませんが、誰かには看取って欲しいものですが、残されたほうはどうなるかってのはあります。
 じゃあ、一緒に死んでしまえばいいかというとそれもまた問題。
 ということで、今回ご紹介するのは若者向けの心中のお話、””文学少女”見習いの初戀。”であります。

写真はたいちろ~さんの撮影。下賀茂神社の相生。ご神木の連理の賢木(さかき)」です。

【本】”文学少女”見習いの初戀。(野村 美月 ファミ通文庫)
 聖条学園に入学した菜乃(なの)は、文芸部部長、井上心葉(いのうえこのは)と出会う。心葉先輩に心惹かれる菜乃は勢いで文芸部に入部するが、まるで相手にされず落ち込む日々を過ごしていた・・・
 遠子先輩の登場する名作”文学少女シリーズ”の番外編。
 でも、デミアンとダミアンの区別のつかない文学少女ってどうよ・・(*2)
【花】相生(あいおい)
 一つの根元から二つ幹が分かれて伸びる、または2本の幹が途中で一緒になっていることを相生といいます。同じく、木の枝が他の木の枝と連なって木目が通じ合っているのが”連理(れんり)”。転じて夫婦・男女の間の深い契りをたとえていう言葉です。
 「長恨歌」にある”比翼連理”です(*3)。高校の教科書にあったはずですが覚えてますか?

 ”文学少女シリーズ”というのは、古典文学をモチーフにいろんな事件を解決するというライトノベル系推理小説。このシリーズはけっこうお気に入りでよくブログにも書きますし(*4)、この本がきっかけで原典を読んだりしています。
 ホームズ役が本書には登場しない遠子先輩で、ワトスン役が心葉ですが、今回は心葉がホームズで、菜乃がワトスンという設定。
 で、今回モチーフになるのが、元禄期に活躍した近松門左衛門の”曽根崎心中”。
 大阪堂島新地の女郎はつと醤油商の徳兵衛がで情死した事件をもとに書かれたいた人形浄瑠璃や歌舞伎の演目。自殺した露天神の森が”お初天神”で、大阪もこっちの名前のほうがとおりがよいです。
 実際にこの作品の大ヒットの影響もあって心中ブームが起こってしまって、上演を禁止されたそうです。まあ、”非実在青少年(*5)”の禁止よりはロマンのある話ですが。

 お話は菜乃が友達になった心中にあこがれるなごむさんと、相生の木にもたれかかるように心中した高校生の男女の謎とき。読んだ時に”相生の木”ってのがわからなかったので調べたのが上。”曽根崎心中”のはつと徳兵衛も二人で相生の木のもとで心中していますので、愛する二人の重要な舞台設定です。
 下賀茂神社で写真を撮ってたのは偶然ですが、こちらは縁結びの神さまなので、本来はこっちでしょうね。

 話が戻って、なごむさんが心中にあこがれる理由がこれ。

  なら、二人にとって一番幸せなときに死ぬのが、きっと最高のハッピーエンドだわ
  (中略)
  長い長い年月を、出会った頃と変わらない気持ちで愛し続けるなんて・・・

 まあ、菜乃の

  百歳のわたしが、百二歳の心葉先輩をほおずき市に誘うんですけれど、
  心葉先輩は耳が遠いフリをして、知らんぷりで短冊に俳句を書いているんです

 というツッコミの想像もかわういんですけどね。
 今でも奥様から”ブログ用の写真ばっかり撮ってて、一緒にいてもつまんない”と怒られているので、私んちも将来はこんなもんでしょうか・・・

 ”お前百まで、わしゃ九十九まで、ともに白髪の生えるまで”てなことを言いますが、まあ、長寿で添い遂げられれば良いことなんでしょうが、相方だけあっても長生きはして欲しいものです。なごむさんも最後には

  じゅうぶんに生きて、生きて、生き続けて、しわくちゃのおばあさんになって、
  そうしてなごむくんに会ったとき、言ってやるのよ
  わたしは、ずっとあなたを愛していたわって

 人を愛するにはこれぐらいのバイタリティが欲しいものです。
 もっとも、これが男女入れ替わると

  どうせ余もあとから行くのだ。まだ充分に美しい姿で待っているがよい(*6)

 とちょっとエゴイスティックになっちゃいますけど。

 ところで、”相生”にかけた言葉で”相老(あいおい)”という言葉もあって、これは”夫婦が仲よく連れ添って長命であること”という意味。まあ、これが理想なんでしょうなぁ、たぶん。
 ということで、”どんなに苦しくても頑張って生きていきましょい!”というのが今回の結論であります。

PS.恋人がいないと、心中以前の話だぞ。わかってるか、○○!

《脚注》
(*1)ころっと逝っちゃった時に誰がが発見してくれるか~
 寮生活ですので、朝に寮のおじさんかおばさんがチェックに各部屋を回ってくれますので生死の確認はできてます。が、ドアを開けるときはちょっとどきどきするとおばさんは言ってました。
(*2)デミアンとダミアンの区別のつかない~
 デミアンは、ドイツの作家ヘルマン・ヘッセの小説。偉そうに書いてますけど読んだことありません。
 ダミアンは、1976年に製作されたホラー映画に登場する悪魔の子の名前。すいません、これも見てません。一人暮らしにホラーはタブーです。
(*3)白居易「長恨歌」にある”比翼連理”です(*2)。
 中国唐の詩人、白居易によって作られた玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードを歌った漢詩。
  在天願作比翼鳥   天に在りては 願わくば 比翼の鳥と作(な)り
  在地願爲連理枝   地に在りては 願わくば 連理の枝と為(な)らんことを

 全文の解説は”花と詩と音楽と”のHPでどうぞ。
(*4)よくブログにも書きますし
 ”文学少女と死にたがりの道化”、”文学少女と穢名の天使”、”文学少女と月花をだく水妖”など。このシリーズがきっかけで”人間失格(太宰治)”や、”夜叉ケ池(泉 鏡花)”なんてのも読みました。
(*5)非実在青少年
 ”東京都青少年の健全な育成に関する条例”の2010年改定案に出てくる言葉。
 簡単に言うと18歳未満に見える人がエッチする表現を規制対象にしようというもの。”見える”というのが恣意的とか、小説はOKで漫画やアニメ、ゲームはNGと問題含みで廃案に。
 しかし、もうちょっとましなネーミングはなかったのかいな。
(*6)どうせ余もあとから行くのだ~
 ”銀河英雄伝説 外伝”(田中芳樹 徳間文庫)より
 自裁した愛人に対して老齢の皇帝がつぶやいた言葉です。

インターネットははたして純粋経験なりや?(善の研究/哲学の道)

 ども、哲学するおぢさん、たいちろ~です。
 先日、京都の哲学の道に行ってきました。あいにくの雨でしたが、逆に考えると雨にけぶる疎水のほとりに咲くあじさいなんてのはかえって風情があり、世俗の塵芥にまみれたおぢさんも”哲学してみましょうか”って気になります。
 ということで、今回ご紹介するのは日本哲学の泰斗、西田幾多郎(*1)の”善の研究”であります。


0368 0363_2


写真はたいちろ~さんの撮影。左は哲学の道とあじさい、右は哲学の道の碑です。


【本】善の研究(西田 幾多郎 岩波文庫)
 純粋経験の立場から、哲学の全領域にわたって整然と組織された哲学の本。のちに西田哲学の基礎となったそうです。初版は明治44年(1911年)と百年に及ぶロングセラー。解題を書いている下村寅太郎いわく”西田哲学の入門書に最適”とのことですが、とっても難しかったです。
【旅行】哲学の道
 京都の南禅寺付近から銀閣寺まで続く疏水のほとりの散歩道。西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたそうです。
 確かにこの閑静な小道を歩いていると哲学の気分にひたれます。派手さはないけど京都観光のお勧めスポット。


 さて、西田哲学の要諦にあるのが、”純粋経験”。本書から抜粋すると

  経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。
  全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
  純粋というのは、普通に経験といっている者も
  その実は何らかの思想を交えているから、
  毫も思慮分別加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。

 この色は何とかの判断もなく、こいつは何を言っておるのだという推理もない本当に感じたままの状態のこと。この上に”思惟”があり、”意思”があるらしい。で、ただ、”私は哲学の道を歩いている”という純粋経験から、”ここはひとつ西田幾多郎でも読んでみましょうか”ということになるわけです。
 正直言って、この本を読むまで”幾多郎”を”きたろう”ではなく”いくたろう”と読んでるぐらいで、”哲学の道”に行かなければこの本を読むことはなかったでしょうねぇ。

 さて、今回のお題の”インターネットははたして純粋経験なりや?”でありますが、ネット上のこんなブログを読んだりとか、バーチャルチアリティってのは”純粋経験”になるんでしょうか?
 ブログを読むこと、本を読むこと、あるいは映画を見ること、直接的には経験であることには変わりはありませんが、そこに誰かさんがした経験を切り出すという意思が入っているので、そういった意味では二次的な経験ともいえます。まあ、見た瞬間は”純粋経験”といえるでしょうが・・・
 本書の中で”個人あって経験あるのではなく、経験あって個人ある”といっているので、こういった駄文のブログを読む経験でも、誰かさんの個人形成や意思に影響してるんでしょうかねぇ。よくわからん。

 実は、”経験って何?”ってどんどん難しくなっている話です。かつて寺山修二が”書を捨てよ、町へ出よう(*2)”といった時代ほど簡単ではななってきています。インターネインターネットで世界中とつながるわ、コンピュータグラフィッスばりばりの映画がでてくるわ、テレビは3D化するわ(*3)、ものすごい勢いで現実をバーチャル技術が追っかけていて、部屋のにいても一昔とは比べられないくらい、いろんな経験ができるようになりました。
 まあ、現実の”哲学の道”に立ってみる経験から得る実感と、テレビから得られる実感は違いますが、そこに付帯する知識はテレビやインターネットのほうがはるかに上。娘が大学で”情報メディア論”ってのを受講していて、講義のテキストを見せてもらいましたが、情報メディアの高度化というのは、ある意味”現実感をどう表現するか”といった要素も大きいので、こういった哲学方向での素養も抑えておいたほうがいいのかな。点数にはならなさそうだけど。

 あと何十年もたたずしてマトリックス(*4)がリアルになりかねないような技術進歩の勢いなので、”経験”に対する社会的な評価のコンセンサスを作っとかないと、”実体験だけが正しい”みたいなことになりかねません。在宅のデイトレーダーがリアルに働いてる人より稼いでいるとか、テレビや本ばっかりみているオタクの人が実は知識(限定的だけど)が豊かとかに対する否定的なニュアンスって、実はそうじゃないと思う時もあったりなんかしちゃいます。

 ”善の研究”は、戦前の日本では学生の必読書だったそうですが、昔の学生は頭がよかったのか、おぢさんの理解力が貧困なのか、1回読んだぐらいじゃその深遠にふれることはできなさそう。でも、たまにはこういった浮世のしがらみから離れて哲学書に触れるのもいいかも。老眼入った人用にワイド版も出版されています。

 余談ですが、同じく歩いた奥様もブログを書いてますのでよろしければごらんください。ま、同じ経験をしてもこんだけアウトプットが違うってのは、人の多様性ということで・・・

《脚注》
(*1)西田幾多郎(にしだ きたろう)
 日本を代表する哲学者(1870年(明治3年)~1945年(昭和20年))。
 第四高等学校(金沢大学の前身)講師から、京都大学教授となり、京都学派を創始。
(*2)書を捨てよ、町へ出よう
 平均化された生活なんてくそ食らえ。本も捨て、町に飛び出そう。永遠の青春の旗手が贈る、自分を知る一冊。(Amazon.comより)
 高校の時ぐらいに読んだはすなんだが・・。こんとまた読んでみよう。
(*3)コンピュータグラフィッスばりばりの映画がでてくるわ~
 左右の眼球の視野差を利用して立体に見せる技術で、今後の家電メーカーの戦略商品となっている模様。
 かつてつくば博(1985年開催)の富士通パピリオンで世界初のCGによる全天周立体映を見たときは驚きましたが、当時は水の分子やDNAといった比較的幾何学的な画像を赤青(だったかな)の2色で表示させるだけでも超大型コンピュータを並列につないぐ必要がありました。そんなのをはるかに高度な表現で当たり前にやってるのを見ると隔世の感があります。
(*4)マトリックス
 1999年から公開されたウォシャウスキー兄弟が監督したアメリカ映画。
 現実と思っていた世界が、実はコンピュータの反乱によって作られた「仮想現実」だというお話。主人公のネオが超人的な動きをするとこを除けば、どれが現実でどれが仮想空間かの区別はつきません。

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